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ジブリかぐや姫の物語・原作と映画の違い罪と罰とは?解釈とラスト.感想/高畑勲

投稿日:2018年5月17日 更新日:

 

竹 かぐや姫の物語

 

スタジオジブリ制作、高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』は、『かぐや姫』として親しまれている、『竹取物語』が原作です。

よく知られている物語ですが、原作と映画に違うところがあるのか?

映画の「姫の犯した罪と罰」というキャッチフレーズが気になり調べてみました。

映画ではサラリと表現されているため、高畑勲監督の言葉、小説などを元に調べ、その結果の解釈をまとめています。



 

 

スタジオジブリ『かぐや姫の物語』とは

・『竹取物語』を原作としたアニメーション映画

・監督は高畑勲氏

・2013年11月23日公開

・キャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」

※高畑勲監督は2018年4月5日、肺がんによりに死去

 

 

原作と映画のあらすじの違いは?

原作は『竹取物語』、子供たちにとっては『かぐや姫』として馴染みのある物語です。

映画の大筋は、ほぼ原作通りです。

 

この映画は、原作の中にある謎を、高畑勲監督の視点で解釈して描いています。

謎は、キャッチコピーにもなっている「姫の犯した罪と罰」です。

かぐや姫はいったいどんな罪と罰を犯したのか?

その答えに導くために、エピソードを膨らませています。

原作にはない登場人物が、かぐや姫の心情を繊細に描く手助けをしています。

原作にない登場人物は、

・かぐや姫が恋をする相手「捨丸(すてまる)」
捨丸は幼馴染ですが、かぐや姫にとっては大切な存在になっていく。
長い年月を経て、捨丸は結婚し子供もできるが、かぐや姫が月に帰る直前、二人の気持ちは通じ合う。
かぐや姫は月へ帰り、捨丸は妻子の元に帰る。

・かぐや姫の側につき、遊び相手にもなってくれた「女童(めのわらわ)」
外出できなくなったかぐや姫のために、桜の木を持ってきたり、羽根付きの相手をする。

・かぐや姫の躾を担当する「相模(さがみ)」
かぐや姫を高貴な姫に育てることがことが命だと信じた翁が、姫の教育係りとして宮中から招く。

・かぐや姫に求婚する5人の公家の1人「石作皇子(いしつくりのみこ)」の正妻「北の方(きたのかた)」
皇子がプレイボーイだと知ったかぐや姫は、北の方と入れ替わり、皇子の行いを暴く。

物語の内容はエピソードが前後していたり、一部削られたり、逆に丁寧に描かれていたりしますが、ほぼ原作通りです。

 

 

 

罪と罰の解釈

キャッチコピーの「姫の犯した罪と罰」は、一体どのような意味なのでしょうか?

そもそも原作に「かぐや姫は罪を犯したので、その罰に地上に下ろした。罪の期限が過ぎたので迎えにきた」とありますので、かぐや姫には罪と罰があるのです。

 

そこから高畑勲監督の発想は、

かぐや姫は地上(人間界)に興味を持っている

地上は穢れた(けがれた)ところなのに、期待感や憧れを持っている

穢れた地上に興味を持つ、そのこと自体が罪

地上に下ろすことで、地上は穢れたところだと分かるだろう

それが分かれば罪は許される

という構造を思いついたと言っています。

 

まとめると、

は、穢れた地上(人間界)に興味、憧れをもったこと

は、その地上に下ろすこと

月に帰りたくなったときに、地上は穢れたところだと認めることになる

その時が罪の償いが終わる時

ということになります。

 

かぐや姫が地球に興味を持ったきっかけは、過去に地上で暮らしたことのある女性が、わらべ唄を歌っていたことでした。

かぐや姫はその歌を聴いて、地上への憧れを抱くのです。

小説に、この辺りのことが書かれています。

 

 

 

罪について

私なりの解釈ですが、

・月の都のお迎えの様子は、来迎図(らいごうず)に似ている
・月の王の容姿は阿弥陀如来に似ている
・月の都から迎えに来た女官が、かぐや姫にいう言葉
「さぁ参りましょう。清らかな月の都にお戻りになれば、そのような心ざわめくこともなく、この地の穢れも拭い去れましょう。」

来迎図とは、阿弥陀仏が菩薩を従えて、生物を極楽浄土へ導くために、人間界へ迎えに下降してくる様子を描いたものです。
阿弥陀如来は大仏様を思い浮かべていただければと思います。

これらのことから、仏教的要素が入っていると思われます。

月の都は煩悩によって悩まされることもなく、心ざわめくこともない極楽浄土、
一方、地上は煩悩にまみれた場所として描かれているのではないでしょうか。

 

地上では、悪事や欲、人情や愛情、様々な感情が渦巻き、悩み、心乱され、希望や絶望を感じながらも、人が懸命に生きています。

でも清浄な月の都の人からみれば、そんな不浄な人間界自体が罪で、人はどんなに歳をとっても未熟者でしかない存在。

そんな穢れた地上に興味を持ち、心を留めること自体が罪なのです。

 

罰について

かぐや姫は地上に憧れを感じていたのに、地上におろすことがなぜ罰になるのでしょうか?

原作で、月からかぐや姫を迎えに来た王が、かぐや姫を育てた翁を「未熟で賤しい(いやしい)」といい、地上を「穢れ(けがれた)たところ」と言っています。

月の都の人にとっては、地上はそのようなひどいところなのです。

だからこそ、かぐや姫が抱いた憧れという感情は、月の人からすれば裏切りのようなものなのですが。

 

かぐや姫は分かっていないけど、地上はひどいところ。

罰として、地上というひどいところに下ろせば、そこが穢れたところだということが分かるだろう。

それが分かったときが、罪の償いが終わる時(心を入れ替えたとき)、ということなのでしょう。



 

 

ラスト結末

結局、かぐや姫は地上での生活が窮屈になり、幸せになることはできませんでした。

そして、月に帰りたいと思ってしまうのです。

「月に帰りたい」は、「地上はよい場所ではなかった」ことを認めることになり、穢れた地上に興味を持ったという罪を償ったことになり、迎えがきます。

 

月の都から迎えがきて、雲の上に乗るかぐや姫。それを追いかけて雲の上にのる翁と媼。

女官が差し出した羽衣をまとってしまえば、地上での記憶は無くなってしまいます。

その前に少しの猶予をもらい、翁と媼に別れを告げます。名残惜しそうなかぐや姫。

女官は「清らかな月の都に戻れば、心ざわめくこともなく、地上の穢れも消える」とサッサと羽衣を着せてしまいます。

羽衣を着せられたかぐや姫は、その瞬間記憶を失い、あっけなく月に帰っていくのですが、最後地球を振り返ったときに涙を浮かべています。

 

 

感想

印象的なのは、月から迎えがやってくるときの音楽です。

かぐや姫が月に帰るという悲しいシーンなのに、音楽はやたら明るいのです。

極楽浄土に「悲しい」という感情はなく、心を乱す記憶は何もないということなのでしょう。

月からの迎えは、とにかく明るく、そして淡々とやるべきことをやり帰っていきます。

そのシーンは冷たささえ感じます。

別れを惜しむかぐや姫、翁、媼の気持ちなんて、これっぽっちも配慮せず、容赦ありません。

そして羽衣を着せられた瞬間、かぐや姫の表情は無になります。

それでも最後、地球を振り返ったときに、かぐや姫の目には涙が浮かんでいます。

 

月の都は確かに素晴らしいところかもしれません。

月の人は、辛さ、苦しさ、悲しさなど感じることなく、皆一律心安らかに過ごしているのでしょう。

そんな月の人が、私には表情が乏しく見えました。

羽衣を着たかぐや姫の表情も「無」に見えました。

煩悩がないので「無」なのかもしれませんが、喜びや悲しみを知っている人間の方が、表情豊かに感じました。

 

色々な経験によって生まれる感情、一言では表現できない思いや気持ち。

それらは月の人から見れば、未熟でどうしょうもないことだけど、人間界では、かけがえのない生活から生まれているもので、感情も一律ではありません。

それを経験したかぐや姫は記憶を失っても、本能的に何かを感じ、それが最後の涙になったのかな、と思いました。

かぐや姫が地球に興味を持つきっかけとなった女性も、記憶はないはずなのに、わらべ歌は覚えていました。

その女性にとっても、人間界は生き生きとした世界として、無意識下に残っているものがあったのかもしれない、そう感じました。

 



 
[douga-haisin-parts]

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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